台湾一周5日間の旅7 赤崁楼(せきかんろう)編
★台湾一周5日間の旅6文武廟編の続き★
台湾南部は昔オランダ人に占領されてて台湾北部はスペインに占領されてた時もあったが
その後 オランダがスペインを追い出し占領し植民地支配した
その後、中国の鄭成功(母は日本人)によってオランダを追いだし占拠。

態勢建て直しのため中国本土から台湾へ渡ってき他軍人である
台湾の首都は1661-1885年まで台南だったがその後 台北に移転
赤崁楼(せきかんろう)はオランダに占領されてた時の建物で台湾語でツーカンロウ
もともとプロデンシャ城(Provintia、普羅民遮城)と呼ばれ植民地時代の重要拠点だった
オランダ人による台湾統治は厳しい統治方式を採用したため漢人の不満が爆発、
1652年に『郭懷一事件』というオランダ人と漢人の衝突事件が発生しました。
オランダ人は事件の再発防止のために、周囲約141m、城壁高さ10.5mの城砦を築いた
これがこの赤崁楼の始まり
鄭成功の時代になってからは東都承天府と呼ばれ政治の中心となったが
1862年には地震により建物は全壊し、1879年には「文昌閣」、「海神廟」が建てられた
台湾は小さいけど台北と違いかなり南国ムードが漂っている
木もガジュマルの木や南国の花がいっぱいありました
奥が入口
この文昌廟の下 土台部分の入り口がオランダ時代から現存する入口
オランダが建築した当時の模型
現在現存してる 文昌廟↓
手前に写ってるのは石碑 (石碑の下は亀)※次の写真でよくわかります
文昌閣と海神廟
貧しかったため この壁は石炭 砂糖 もち米などの食物で固められているそうです
これがオランダ占領当時から残っている壁
こんな変わった出入口って中国独特ですよね~♪
庭からの光景
この銅像は鄭成功氏に降伏するオランダ人の銅像
鄭成功氏はオランダを追いだした英雄なので作られたのでしょう
でも、鄭成功は38歳の若さで死去し、政治は清朝が司ることになる
この敷地内に日本人である羽鳥又男さんの銅像があります
この方は1942年4月から台南市の市長を務めた人物で、日本統治時代の最後の市長。
そしてかなりの財政難であるにもかかわらず軍の指示を反対し、この赤崁楼や孔子廟等
重要な文化の修復と保存に力を入れてきた人であり、今でも大切に慕われている
日本人の一人である
★台湾1周5日間の旅 澄清湖☆九曲橋に続く★
- 関連記事
-
- 台湾一周5日間の旅9 放牧!!!!!!
- 台湾一周5日間の旅8 澄清湖☆九曲橋
- 台湾一周5日間の旅7 赤崁楼(せきかんろう)編
- 台湾一周5日間の旅6 文武廟
- 台湾一周5日間の旅5 日月譚編
スポンサーサイト